「現代社会の教養力ゼミ」という科目で課題として提出した書評の改訂版です。
他の人と会話することが苦手だ、と強く意識するようになったのは高校に入ってからだったろうか。もちろん、最終的にはある程度の友人知人ができたし、人並みには他者と触れ合っていたと思うが、何となく心に残るわだかまりはついに解消されず、それは大学に入学して人と大して触れ合わなくても支障が無くなった今、ますます顕著である。コミュニケーション力を読もうと思ったのは、そんな不安を少しでも軽くしたいという思いがあったのかもしれない。
著者の齋藤孝氏は声に出して読みたい日本語で有名である。私が著者を知ったのはある清涼飲料水のCMであった。奇妙な体操をする著者はなかなかインパクトが強かった。そして後にNHK教育テレビの「にほんごであそぼ」という番組の監修をしていることを知った。有名な和歌や小説のフレーズを出演者に喋らせたり歌わせたりする番組だが、吸い寄せられるような魅力があって、対象年齢から大きく外れているにも関わらず見入っていた。他にも「英語でしゃべらナイト」というNHKの語学番組で、英文を読みながら身体を動かしていたのを憶えている。
これらの著者が関わった作品についての大きな特徴は兎に角身体を使う、という意識である。そしてコミュニケーション力においてもこの意識が非常に強く表れている。その根底にあるのは、恐らく身体次元のコミュニケーション
力の減退についての危惧であろう。
著者は小学生が同級生をナイフで殺傷したという同級生殺害事件について、ナイフで刺してもチクリとも自分の方は痛くない。ナイフには、相互性が欠けているのだ
と述べている。身体的な意思疎通によるプロセスが不足しているとそこまで簡単に至ってしまう可能性を示した点ている点に「身体」の重要性を痛感し、同時に自らに対しての危機感を覚えた。
著者はそのような現状を打開すべく、身体的な意思疎通を行うための手法を紹介しつつ著者自身もそれを講義などに積極的に取り入れて、身体的なやりとりをせざるを得ない状況を作り出している。例えば、一定時間のうちに話し手が受け手と目を合わせて受け手が見られたと感じたら座っていく、というアイコンタクトの訓練がある。一見過剰にすら思えるが、そこまで意識的にやったからこそ成果を収めているのだろう。
まさしくこの本は他人との意思疎通について自信が無い人のための実践的ガイドである。思えば、私の「わだかまり」もこれが原因だったのだろう。私もこれを参考にしてもっと意識的にならなければ、などと思っていたのだが、ふと身体がこわばっていることに気付いた。これはいけない。何しろ、「ほどけたからだがコミュニケーションの基本」なのだから。身体を揺さぶったら少し緊張がほぐれた気がした。身体的コミュニケーションへの道はまだまだ長い。